2022年 07月の記事

July 2022
カテゴリー:一般の記事
author: Masahiko Kato
7月21日フジテレビ系『LOVE LOVE愛してる』で吉田拓郎卒業SPがオンエア、さかのぼる6月29日にはラストアルバム『ah-面白かった』を発売、僕を支えてくれていたミュージシャン吉田拓郎はその活動に終止符を打つと表明しました。
いつかこの日が来ると予想していたとはいえ、何か寂しい気持ちに襲われたのは事実でした。

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高校生時代、ラジオの深夜放送で流れてきた吉田拓郎の歌、
「♪私は今日まで生きてきました、時には誰かと手を取り合って・・・」
「♪これこそと信じれるものがこの世にあるだろうか、信じるものがあったとしても信じないそぶり・・・」
何故でしょうか?
その歌から伝道してくる共感、感動、それまでには全くないものでした。
強く心が動かされた記憶が残っています。
そしてその日からずっと吉田拓郎は僕の心の中に生き続けてきました。
僕の中で起きたこういった現象はビートルズ現象のように、日本全国の若者の心をも動かしたのにちがいありません。

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そして初めて吉田拓郎の実物を見たのは浪人時代、岐阜県中津川で2泊3日で夜を徹して全日本フォークジャンボリーが開催されたとき、『人間なんて』の大合唱はすごいものだったと記憶しています。

作詞・作曲・歌を一人でこなす、シンガーソングライターとして強烈な個性、日本のそれまでの音楽の概念と違った形の言語感覚が若者の心を掴んで離しませんでした。

学生運動で時代が大きく揺れる中、拓郎の歌は一時期若者の支持を失ったかなと思わせる時期もあったように記憶していますが、鹿児島で生まれ、広島で育った無名の若者=吉田拓郎は日本音楽界の風雲児でした。

それまでの歌の存在価値そのものを大きく変えたような気がしてなりません。
自分で作った歌を自分で歌い、語り掛け、あくまでも自作自演でのステージは、その後浜田省吾、桑田佳祐、奥田民生、長渕剛、小室哲哉などの多くのミュージシャンに影響を与え受け継がれても来ました。

森進一が歌って日本レコード大賞を受賞した『襟裳岬』、日本初のオールナイトでの『つま恋』や『篠島』での野外コンサート、彼の果たした功績は大きなものがありますね。
NHKの紅白歌合戦には一度だけ出場しました。
普段からマスコミ嫌いでメディアには出ない拓郎を目にした時でしたが、それはそれで目がテレビに釘付けになり印象的でした。

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個人的に最後の拓郎のコンサートに顔を出したのは、もうかれこれ15年ほど前になるでしょうか・・・。
その後はもっぱらテレビやユーチューブ、車の中でCDを聞くのが日常ですが、拓郎さんが自分の歌『元気です』のように、元気でいてくれるのが嬉しいものでした。
体を悪くして、入院なども経験してらっしゃいましたが、回復なされたようで、最近は月1回ですがラジオのオールナイトニッポンでの語りに耳を傾けるのが接点です。
(8月12日22時から拓郎さんの声が聞こえるはずです。こちらも終わりが近づいていることは事実ですが・・・)

先日のCDのタイトルのように拓郎さんが日本の音楽を面白くさせてくれた功績を讃えたく思います。
そしてまた僕の人生を支えて下さった拓郎さんに対して心から感謝の言葉を申し上げたいと思います。
「ありがとうございます」

個人的にはあなたの歌をこれからも耳にして、また歌うこともある事でしょう。(僕の心の中にはずっと吉田拓郎は生き続けるに違いありません)
カテゴリー:接客/サービス
author: Masahiko Kato
僕が、かつてから趣味と言ってはばからないのがスポーツ観戦です。
野球から、ラグビー、サッカー、相撲、バレー、テニス、ゴルフ、卓球、陸上競技・・・もう何でもござれでスポーツ観戦しているだけで満足の状態と言っていいでしょう。
その中で特に好きなのが野球、相撲、ラグビーになるでしょうか?
そしてまた野球に関して言えばもちろん大谷選手の活躍するメジャーベースボールも大好きでエネルギーをたくさん頂いてますが、高校野球や、大学野球、社会人野球といったアマチュア野球に魅せられています。
なんといってもあのひたむきさ、一生懸命さが魅力ですね。

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相撲に関して言うと父親に連れて行ってもらった大相撲からですから随分と長くファンを継続していることになります。
名前をあげると知る人は相当な相撲マニアの人ということになりますが、鏡里・大内山あたりの当時の時津風部屋の下呂市での巡業から目にしてきています。
一時は故大関北天祐さんと親しくなって、当時の社員さんを連れて北天祐さんが起こされた二十山部屋にちゃんこを食べに行ったりもしましたし、千秋楽には二十山部屋の打ち上げにも顔を出してもいました。

最近の相撲では現在カド番大関の正代関の成績が気になっています。
仕事でよく顔を出させていただく熊本県の出身で真面目ないい力士なのですが、何せ気が弱いというイメージがあります。
おそらく人間的には良い人なんでしょう。
今場所もカド番で負け越した場合は大関から陥落の危機なのですが、案の定初日から3連敗、5日目までも1勝4敗という状態でした。
そんな正代関に名横綱だった白鵬がアドバイスをした話を聞きました。

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そのアドバイスとは土俵に上がるまでにある程度の汗をかいて、つまりはある程度の準備運動、ウォーミングアップをしなさいというものだったと聞きました。
その効果があったのでしょう。
また本人の受け身にならないで攻めていくという姿勢もあると思います。
6日目から7連勝正代はカド番を脱して大関を維持しました。

私たち住宅営業のお客様に対しての折衝にもこういったことが当てはまるような気がします。
いきなり商談ではなく、その前に社内で社員同士で色々と話をするもよし、またお客様との語らいにあってもまずは世間話等の気楽な話から始めるというものです。
つまりは緊張が取れて、コミュニケーションがとりやすい状態になるというものです。
また社員通しで商談を前提にしたロールプレイングをしてみるのも効果ありますね。
ぜひ、実践してみて下さい。


カテゴリー:一般の記事
author: Masahiko Kato
大学生時代の友人k君から突然ですがメールが届きました。
メールの中に卒業式の日に撮った写真が添付されていました。
かつての友人たちと共に、若き日の僕が前列左側に座っています(みんな若いですね)
何でも友人が整理整頓中に見つけたらしいのですが・・・。
実は僕の学生時代の写真が殆どありません。
送ってもらった写真は大学の構内で写した写真でしたので、そういったものは何もなく貴重なものとなりました。
友人に感謝です。
さっそく御礼の電話を入れました。

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実は僕は2年間のブランクの後に大学入学しました。
高校卒業してから働いてました。今でいうフリーター経験者です。
早稲田大学を志望しましたが不合格でした。(挫折です)
その後浪人を経て最初入った大学は中央大学法学部でしたが、今度は弁護士に挫折しました。(司法試験目指してがむしゃらに机に向かうのは苦手なようです)
マスコミ関連に憧れ文学部哲学科社会学専攻への転部試験を受けましたが落ちて、たまたま受けた法政大学・社会学部への編入試験に合格し2年から4年まで法政大学で学生生活を送りました。
「進取の気性、質実の風」がモットーの法政大学での学生生活はそれなりに楽しいものでした。
もっとも、もっと学業に専念すればよかったかもしれません。(反省)
ですが、今もすっかり「自由を生き抜く実践知」法政大学ファンであります。

僕のいた時代は学生運動が収束を迎え(と言ってもまだ名残はありましたが…)た頃でしたが、学内はまだロックアウトがあったりしてレポート試験も2度ほどあったと記憶しています。
当時の学内はアジテーションや政治的な看板だらけ、またいたるところに落書きが溢れ、ある意味では青春の息吹が満ち溢れていました。

大学へ行くというよりもむしろ毎日はほぼアルバイトに明け暮れ、そんな中でゼミの仲間とのふれあいだけはなんとか出来ていたように振り返ります。
他にも広告研究会に属していてマスコミ希望だけは継続していました。
結局は不況のせいもあってほとんどの企業が新卒の採用を見送り、僕の志望していたマスコミ関連の企業も採用なしで就職が思うようにならず、希望を断念する形になりました。(また挫折です)
とはいうものの、そのおかげで積水ハウスとの縁が出来たのですから…人生は面白いものです。

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学生時代はアルバイトで生活費を稼ぐ傍ら、寝袋を背負ってヒッチハイクで北海道へ2度旅をしました。
たくさんの方の好意で車で移動できました。
礼文島の山のてっぺん(桃岩)でテントを張って野宿したのは良き思い出です。
とにかく、あの頃は何も怖いものが無かったですね。
またいろいろな人の親切さに助けて頂きました。
本当に感謝、感謝です。

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今回、学生時代の下宿先でのショット、旅先でのショットを挙げてみました。
4畳半の部屋で、共同トイレでした。またお風呂は無くて週に2度ほど銭湯へ通いました。
まさに「神田川」の歌の世界に近いものでした。
とにかくお金がありませんでしたが、多感な時代で、いろいろと模索していた時代でした。
自分にとっても数々の挫折を繰り返しながら、自分探しの放浪の季節だったように振り返ります。

懐かしい友人たちの顔、今はもうみんな好々爺となっていますが・・・。
可能であれば、あの頃に戻りたいものです。
貴重な写真送ってくれた k君に感謝です。

カテゴリー:営業
author: Masahiko Kato
最近、偶然ですが九州と愛知の顧問会社の社長が同じ本を手に取っておられました。
本の名前は『数値化の鬼』という書です。
いい本を手に取っておられるなと感心致しました。

この本は最近の書ですが(2022年3月発行)、かつて『数字で話せ』(2019年3月発行)という書も目を通させていただきました。

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僕自身が経営に携わっていたころの話です。
常日頃から口に出していた持論です。
私達は二つの事を実行していきましょう・・・。
「具体的な話をしよう!」「現実的な話をしよう!」でした。
そしてそこでの基本として、絶えず数字を使って話をするという事でした。
不思議ですが、数字を使って話をするとその話は具体的になります。
企業はご存じのように営利を目的としています。
毎月の業績の推移がその企業の経営に大きく影響致します。
業績向上の為には目標数字の達成に対する社員の意識向上が不可欠です。

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経営トップが今期は頑張って欲しい…だけ社員に対して話をするなんてことはないと考えます。
絶えずそこには目標数字が存在する筈です。
リーダーが「もっと面談件数を延ばそう!」という場合、この場合のもっとを具体的にする必要があります。
数字を使って例えば1日8件の面談数を頑張ってこなそうと指示する事が重要ですね。

日々、数字を使っての仕事上のやり取りを当たり前化することが、社員さん達の意識強化につながり、業績アップに貢献すると申し上げてよいでしょう。
往々にしてみられる上司の評価は個人的感情による人間関係(好き―嫌い)もあります。
そういった弊害を無くす為にも数字を見て判断することが客観性があって正しいものの見方に繋がっていくと考えた方が良いですね。

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様々な企業に顔を出す度に、数字を使う会社と、そうでない会社の差を感じます。
そしてほとんどの場合間違いなく、常日頃から数字をベースに話をしている会社が勝ち組となっています。
一言で表現すれば数字を使うことは客観的に自分の会社が見えるようになるという事かと思います。

毎月の契約目標も、それを実現しようとする行動目標も数字でしっかりと確認していきたいものです。
数字は正直な社員の姿を映し出します。
数字を使っての日常を強くお勧めいたします。