7月21日フジテレビ系『LOVE LOVE愛してる』で吉田拓郎卒業SPがオンエア、さかのぼる6月29日にはラストアルバム『ah-面白かった』を発売、僕を支えてくれていたミュージシャン吉田拓郎はその活動に終止符を打つと表明しました。
いつかこの日が来ると予想していたとはいえ、何か寂しい気持ちに襲われたのは事実でした。

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高校生時代、ラジオの深夜放送で流れてきた吉田拓郎の歌、
「♪私は今日まで生きてきました、時には誰かと手を取り合って・・・」
「♪これこそと信じれるものがこの世にあるだろうか、信じるものがあったとしても信じないそぶり・・・」
何故でしょうか?
その歌から伝道してくる共感、感動、それまでには全くないものでした。
強く心が動かされた記憶が残っています。
そしてその日からずっと吉田拓郎は僕の心の中に生き続けてきました。
僕の中で起きたこういった現象はビートルズ現象のように、日本全国の若者の心をも動かしたのにちがいありません。

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そして初めて吉田拓郎の実物を見たのは浪人時代、岐阜県中津川で2泊3日で夜を徹して全日本フォークジャンボリーが開催されたとき、『人間なんて』の大合唱はすごいものだったと記憶しています。

作詞・作曲・歌を一人でこなす、シンガーソングライターとして強烈な個性、日本のそれまでの音楽の概念と違った形の言語感覚が若者の心を掴んで離しませんでした。

学生運動で時代が大きく揺れる中、拓郎の歌は一時期若者の支持を失ったかなと思わせる時期もあったように記憶していますが、鹿児島で生まれ、広島で育った無名の若者=吉田拓郎は日本音楽界の風雲児でした。

それまでの歌の存在価値そのものを大きく変えたような気がしてなりません。
自分で作った歌を自分で歌い、語り掛け、あくまでも自作自演でのステージは、その後浜田省吾、桑田佳祐、奥田民生、長渕剛、小室哲哉などの多くのミュージシャンに影響を与え受け継がれても来ました。

森進一が歌って日本レコード大賞を受賞した『襟裳岬』、日本初のオールナイトでの『つま恋』や『篠島』での野外コンサート、彼の果たした功績は大きなものがありますね。
NHKの紅白歌合戦には一度だけ出場しました。
普段からマスコミ嫌いでメディアには出ない拓郎を目にした時でしたが、それはそれで目がテレビに釘付けになり印象的でした。

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個人的に最後の拓郎のコンサートに顔を出したのは、もうかれこれ15年ほど前になるでしょうか・・・。
その後はもっぱらテレビやユーチューブ、車の中でCDを聞くのが日常ですが、拓郎さんが自分の歌『元気です』のように、元気でいてくれるのが嬉しいものでした。
体を悪くして、入院なども経験してらっしゃいましたが、回復なされたようで、最近は月1回ですがラジオのオールナイトニッポンでの語りに耳を傾けるのが接点です。
(8月12日22時から拓郎さんの声が聞こえるはずです。こちらも終わりが近づいていることは事実ですが・・・)

先日のCDのタイトルのように拓郎さんが日本の音楽を面白くさせてくれた功績を讃えたく思います。
そしてまた僕の人生を支えて下さった拓郎さんに対して心から感謝の言葉を申し上げたいと思います。
「ありがとうございます」

個人的にはあなたの歌をこれからも耳にして、また歌うこともある事でしょう。(僕の心の中にはずっと吉田拓郎は生き続けるに違いありません)