今もまだ、旅の途中だけれど・・・。 (2023/11/12)
カテゴリー: 自由
Author: Masahiko Kato
高校1年生の時友人に誘われて初めて旅に出ました。
男4人の静岡への1泊2日の旅でした。
この時初めて新幹線こだまに乗った記憶があります。
家族旅行は別として、この時が個人的な旅のスタートでした。
高校2年の春、クラスメイトM君と2人で春休み15日間を利用し九州一周の旅に出かけました。
クラスメイトの親戚が長埼・平戸にあって、そのお宅に宿泊させてもらって、その後は一人ずつになって最終日に北九州で一緒になって帰ってきました。
九州までは超満員の鈍行列車に揺られて、平戸から佐世保へ船に乗り、その後はもっぱらヒッチハイクの旅、学校やお寺、公園や駅などをお借りしてシュラフで寝ました。
往復の切符と少しばかりのお金を持っていましたが、ほとんど文無し、若くて健康ですから当時は怖いものなしでした。
背中に背負ったリュックの中には固形燃料やインスタントの食料がありました。
旅の途中にはサプライズもあるものです。
宮崎・青島では高校1年時の担任の先生が新婚旅行中でばったりと遭遇しました。
鹿児島の指宿では入った銭湯がなんと混浴でびっくりしました。
親には心配かけたかもしれませんが、義務教育でないのに甘えて高校時代はとにかくよく学校を休みました。
何とか落第は逃れたものの、始めて通知表に1という評価を頂いたのはこのころです。
とにかく勉強しなかったものですから・・・。
そして高校2年以降は1週間以内の短い旅を何度か経験しました。
その全てがヒッチハイクと無銭旅行でした。
高校卒業後は社会人となって働き、社会人・浪人を経て2年後に大学に入ったことも旅でした。
また中央大を経て弁護士の夢に挫折経験し、2年次から法政大に編入したのもある意味旅だったかもしれません。
就職困難な時期でマスコミの夢を断ち切ったのも今となってはよい経験でした。
高校の文化祭に『旅のエッセイ』という文集を出典しました。
そしてその中に「自分は将来旅を日常化したい、それが夢」と書かせて頂きました。
新婚旅行が僕にとって初めての海外旅行でした。(行先はギリシャでした)
目を患いアテネで病院へ行った想い出があります。
1973年までは、1ドルが360円の時代で海外の旅は高価なものでした。
その後は家族で、また会社の旅行で随分と国内外の各地を旅行させていただきました。
サラリーマン生活を終え住宅会社の顧問を中心とした生活をさせて頂いています。
独立して19年経過しました。
有難いことに沖縄を除く46の都道府県で仕事の御縁をもらいました。
北海道も丸2年間、毎月2回の仕事をこなしました。
全国各地に多くの貴重な財産となる思い出が作れました。
そして、お陰様でたくさんの感動を味わうこともできました。
コロナ禍になる前の10年間は年間にホテル宿泊が150泊という日々を送りました。
まさに「旅を日常化する」自己実現だったように思います。
かつて母親に言われました。
「あなたは放浪癖があるね」と。
何でも父方の祖先(父親の曽祖父)が虚無僧となって家を出て帰らなかったそうです。
そんな血が身体を流れているのかもしれません。
コロナを起点として仕事量は減ってはいますが、まだまだ旅は継続中です。
忙しさがなくなり、自由な時間が増えました。
かえって良かったのではと思ってもいます。
1年前の腰の手術以来、週2日のリハビリが続いています。
こうやってこのホームページ上でのブログも2004年から2500回を超えてきています。
心の旅が続いています。
旅を経験するたびに世界は狭いとつくづく感じています。
私達が住む日本はというと飛行機で飛べばたったの2時間、小さな国です。
戦争なんかやればすぐにでも壊れてしまうでしょう。
地球温暖化で異常気象が続いています。
今迄例を見ない火災や台風、地震も起きてきています。
環境問題が深刻化してきています。
地球規模で将来を考えなくてはいけない時代に、絶対にあってはいけない戦争が現実化しています。(悲しい事実です)
そこは破壊の世界です。
住宅建設の仕事は建設的な仕事です。
住宅建設の仕事は人を幸せにする仕事です。
平和な生活を建設しようとする素晴らしい仕事です。
こういった仕事に就かせていただいたことに感謝しながら、もう少し旅を続けていきたく思っています。
今もなお、毎日が学びの連続です。
手術で少し不自由になった身体と戦いながらも、住宅建設に情熱を持ち続ける仲間と一緒に毎日を旅していきたいと望んでいます。
男4人の静岡への1泊2日の旅でした。
この時初めて新幹線こだまに乗った記憶があります。
家族旅行は別として、この時が個人的な旅のスタートでした。
高校2年の春、クラスメイトM君と2人で春休み15日間を利用し九州一周の旅に出かけました。
クラスメイトの親戚が長埼・平戸にあって、そのお宅に宿泊させてもらって、その後は一人ずつになって最終日に北九州で一緒になって帰ってきました。
九州までは超満員の鈍行列車に揺られて、平戸から佐世保へ船に乗り、その後はもっぱらヒッチハイクの旅、学校やお寺、公園や駅などをお借りしてシュラフで寝ました。
往復の切符と少しばかりのお金を持っていましたが、ほとんど文無し、若くて健康ですから当時は怖いものなしでした。
背中に背負ったリュックの中には固形燃料やインスタントの食料がありました。
旅の途中にはサプライズもあるものです。
宮崎・青島では高校1年時の担任の先生が新婚旅行中でばったりと遭遇しました。
鹿児島の指宿では入った銭湯がなんと混浴でびっくりしました。
親には心配かけたかもしれませんが、義務教育でないのに甘えて高校時代はとにかくよく学校を休みました。
何とか落第は逃れたものの、始めて通知表に1という評価を頂いたのはこのころです。
とにかく勉強しなかったものですから・・・。
そして高校2年以降は1週間以内の短い旅を何度か経験しました。
その全てがヒッチハイクと無銭旅行でした。
高校卒業後は社会人となって働き、社会人・浪人を経て2年後に大学に入ったことも旅でした。
また中央大を経て弁護士の夢に挫折経験し、2年次から法政大に編入したのもある意味旅だったかもしれません。
就職困難な時期でマスコミの夢を断ち切ったのも今となってはよい経験でした。
高校の文化祭に『旅のエッセイ』という文集を出典しました。
そしてその中に「自分は将来旅を日常化したい、それが夢」と書かせて頂きました。
新婚旅行が僕にとって初めての海外旅行でした。(行先はギリシャでした)
目を患いアテネで病院へ行った想い出があります。
1973年までは、1ドルが360円の時代で海外の旅は高価なものでした。
その後は家族で、また会社の旅行で随分と国内外の各地を旅行させていただきました。
サラリーマン生活を終え住宅会社の顧問を中心とした生活をさせて頂いています。
独立して19年経過しました。
有難いことに沖縄を除く46の都道府県で仕事の御縁をもらいました。
北海道も丸2年間、毎月2回の仕事をこなしました。
全国各地に多くの貴重な財産となる思い出が作れました。
そして、お陰様でたくさんの感動を味わうこともできました。
コロナ禍になる前の10年間は年間にホテル宿泊が150泊という日々を送りました。
まさに「旅を日常化する」自己実現だったように思います。
かつて母親に言われました。
「あなたは放浪癖があるね」と。
何でも父方の祖先(父親の曽祖父)が虚無僧となって家を出て帰らなかったそうです。
そんな血が身体を流れているのかもしれません。
コロナを起点として仕事量は減ってはいますが、まだまだ旅は継続中です。
忙しさがなくなり、自由な時間が増えました。
かえって良かったのではと思ってもいます。
1年前の腰の手術以来、週2日のリハビリが続いています。
こうやってこのホームページ上でのブログも2004年から2500回を超えてきています。
心の旅が続いています。
旅を経験するたびに世界は狭いとつくづく感じています。
私達が住む日本はというと飛行機で飛べばたったの2時間、小さな国です。
戦争なんかやればすぐにでも壊れてしまうでしょう。
地球温暖化で異常気象が続いています。
今迄例を見ない火災や台風、地震も起きてきています。
環境問題が深刻化してきています。
地球規模で将来を考えなくてはいけない時代に、絶対にあってはいけない戦争が現実化しています。(悲しい事実です)
そこは破壊の世界です。
住宅建設の仕事は建設的な仕事です。
住宅建設の仕事は人を幸せにする仕事です。
平和な生活を建設しようとする素晴らしい仕事です。
こういった仕事に就かせていただいたことに感謝しながら、もう少し旅を続けていきたく思っています。
今もなお、毎日が学びの連続です。
手術で少し不自由になった身体と戦いながらも、住宅建設に情熱を持ち続ける仲間と一緒に毎日を旅していきたいと望んでいます。