「いい家に育ったんだね」と言われて「えっ」と思いました。正直意外でした。そう言ったのは北陸からやってきた税理士先生。僕の名刺の裏面に書いてあるプロフィールの一部にある僕の赤ん坊時代の写真、兎の「カタカタ」と歩くと音のする歩行器を持った写真です。それを見ての発言なのですが、確かにそう言われると白い服を着て白い帽子、白い靴下。写真館で写している様子だし良家のお坊ちゃんと言われてもおかしくないかもしれません。でも真実は違います。おそらくは母親がこんな時こそと街の写真館へ私を連れて行き多少張り切って費用を奮発し撮影してもらったものに違いありません。
  私の家は当時父が教員、母も教員をしていたのですが私を産んで仕事をやめました。当時の教員の給与は高いものではありませんでしたから生活は大変だった事と予想されます。その後妹が産まれ、私から5年遅れて弟が産まれました。父方の家系は農家でした。10人兄弟の第1子で産まれた父は本来なら家を継ぐべきだったのでしょうが次男に家を継いでもらい士官学校から師範学校へ、そして教員になり母とは職場結婚でした。僕が13歳のときにマイホームを完成させたのですが、それまでは教員住宅を移り住む生活、時には民家の2階の2部屋を我が家として5人で生活した事もあります。決して豊かな生活ではなかった筈です。が、節目、節目で母が私達子供の思い出になるようにと記念になる写真が今も残っています。母は地元では富裕な家で産まれ育ちました。そういった意識があったのかもしれません。
  昨年「オールウェイズ 3丁目の夕日」を見ました。映画を見ていて何度も目頭を押さえました。涙腺の緩さは親譲りです。昭和33年、あの頃の生活は貧しかったけど心豊かな時代でした。僕は小学2年生。時として厳しかった父親でした。よく殴られもしました。夜中に家の外に出されて中に入れてもらえないときもありました。そんな時決まって鍵を開けてくれたのは母親でした。・・・でもいつも自転車の後ろに僕を乗せて遊びに連れて行ってくれたのは父親でした。運動会でもらった風船が僕の手を離れて、風船が風に吹かれて川の向こうまで飛んで行ってしまったのですが、それをどこまでもどこまでも追いかけていってくれた父親の姿がいまだにまぶたに浮かびます。その頃、一番長く住んだ教員住宅の間取りは3畳の玄関、奥に2畳の台所、6畳の居間、6畳の全員の寝室でした。ずっと裸電球の暮らしが続いていたのですが、居間にある時蛍光灯がつきました。手元の紐を引っ張って明かりが点いた時「我が家も電化した」と口にした事を覚えています。
  教員住宅は連棟式ですぐ後ろは山、大雨でも降れば今にも土砂崩れがおきそうな危険がいっぱいな住まいでした。よくまあ、あんなところに・・・今振り返ると恐い感じもしますが、山を使ってのそり遊び、栗拾い、竹スキー、・・・思い出がいっぱい詰まっています。そんな思い出のいっぱい詰まった親父が夏の暑い日の夜逝きました。「お父さんありがとう」感謝の言葉を言えなかった事が悔いが残ります。