4月13日から大阪・夢洲で大阪・関西万博が始まっています。
10月13日までの約半年の期間です。
皆さんは行かれる予定ですか?

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実は僕は万博に思い入れが人一倍あります。
このブログでも書いたことがないと思いますが、実は僕は1970年の大阪万博で働いていた経験があります。
もうずいぶんと年月が経つ訳ですが、1970年、高校を卒業した日の翌日(3月2日)から
今でいうフリーター感覚で僕は大阪万博のフランス館に勤務していました。
当時の僕は海外に憧れを持ち、せっかくの日本で開催される万博に大きな興味を抱いていました。
大学へ行く事ももちろん考えていましたが、その前にまず働いてみる事もいいんじゃないかという事で、ちょうどタイミングよく開催された大阪万博に応募したわけです。
何をやっていたかと言いますと、実は当時の仕事で唯一OKだったのが警備の仕事でした。
現在のALSOK、当時綜合警備保障㈱と言いましたが、そちらの企業の仕事をした訳です。
もう55年前の話ですが万博に対する思いが強かったせいというか、世界をこの目で知ってみたいという気持ちでした。
当時の海外旅行はなんていっても1ドルが360円の時代です。
海外旅行は夢のまた夢という時代でした。
国内をヒッチハイクで廻っていた僕ですがさすがに海外には疎遠でした。
ですから、身近で開催された万博でインターナショナルな経験をしたいという願望で出かけたわけです。

当時の僕は18才、千里ニュータウンの仮設の建物での寮生活、2段ベッドでの集団生活は大変でした。
ずっと家での生活をしていた僕にとっては毎日が試練の日々でした。
僕の下の人間は誰もいません。
先輩方からの厳しい叱咤もありました。(いい勉強です。)
逆に優しい先輩たちもたくさんおられました。(感謝です。お世話になりました)
大学生のアルバイトの方々が数多くいらっしゃいましたが、元自衛官の人も多かったように振り返ります。
仕事は24時間勤務(仮眠時間が4時間ありました)翌日が休みという勤務形態でした。
休日は睡眠と、掃除、洗濯、雑用で時間が足りませんでした。

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フランス館の入り口に直立不動で立っていました。
動くなと言われていて随分ときつかった思い出があります。
フランス館の皆さんには「ボンジュール」「ボンソワール」とか「メルシー」の挨拶に始まり、片言のフランス語をお話しして可愛がっていただいていました。
フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」を毎日のように耳にした思い出があります。
当時の 4つの白い球体が並んだエアドームのフランス館は夜は1235個のストロボランプが点滅し、昼は白い塗装が優雅で清楚は印象を与えていました。

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なんていってもこの大阪万博は凄い人、人で溢れていました。
岡本太郎さんの作品「太陽の塔」はしっかりと覚えています。
そして何と言ってもアメリカ館の「月の石」が超の付く大人気でした。
6か月の開催期間の来場者数は6421万人、1日の平均入場者数は35万人でした。
参加国は76か国、展示施設は32施設でした。
ちなみに入場料は大人で800円、子供が400円だったと記憶しています。
参考に、当時の平均月収は5万円です。
会場にいたおかげでパビリオンのほとんどすべてをこの目で見させて頂きました。

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万博のテーマは『人類の進歩と調和』
三波春夫さんや、坂本九さんの「♪こんにちわ、こんにちわ西の国から・・・」で始まるテーマソングも懐かしいですね。
日本中が活気づいていました。
後に沖縄や愛知で開催された万博もありますが、この大阪万博の盛り上がりは最高に凄かったと思います。

現在開催されている大阪・関西万博に対して個人的に行きたいという気持ちと、興味を抱かない気持ちが錯綜しています。
今回のテーマは『いのち輝く未来社会のデザイン』ですね。
キャラクターの「ミャクミャク君」ももう一つ魅力に欠ける感じです。

若かったあの頃の希望が溢れていた時代、万博も夢でした。
今回は不参加のロシアが、当時はソビエト館で存在感のある大きな建物で出展されていました。
残念ながら、現在の世界情勢は希望とは遠い現実が存在します。
世界の人が夢を追って明るい未来をと考える状況とは少しばかり違ってきているように思えてなりません。

それでも万博には人を魅了してやまないものも在るように思います。
行ってよかったという人が多ければ足を運ぶことにもなるのでしょうね。
かつての自分の様に、若い人たちが希望と夢を抱いて出かけていく万博であってほしく望んでやみません。