我流、今日までそして明日から (2024/10/01)
カテゴリー: 自由
Author: Masahiko Kato
ほとんど毎日、ウォーキングで自分なりのリハビリをしています。
イヤホーンから聞こえてくるのは吉田拓郎、「♪今日までそして明日から」です。
「あなたは放浪癖があるから・・・」かつて母親に言われたことがあります。
振り返れば高校1年時のクラスメイトとの旅から始まって、その後はヒッチハイクでの一人旅、シュラフとリュックを背負って、固形燃料や食料も入れての彷徨いが始まりました。
高校はもう義務教育ではないからと、ちょいちょい学校をサボタージュして夜中に家族に気づかれず静かに家を出ていたなんてこともあります。
学校は何とか最低の出席日数だけは確保して何とか進級はしていました。
唯そんな日常でしたから当然ながら成績は悪く、通知表で初めて学科によっては5段階評価の1の評価もあり、2年からは進学コースに入れなく女子の多い短大クラスで学ぶことになってしまいました。
両親は共に教育に従事していたのにも関わらず、僕の我儘を放任してくれていました。
感謝しかありません。(今も毎月1回のお墓参りは欠かしていません)
とにかくあの頃は怖いものがなかったですね。
金はないから取られるものは無いし、体は健康そのものだし、好きな時にふっと誘われるように、ガソリンスタンドなどで運転手さんにお願いして乗車させてもらいヒッチハイクの旅を繰り返していました。
高校2年次の文化祭に「旅のエッセイ」と名付けた書き物を出店した思い出がありますが、その中に「将来旅を日常化したい」という思いを綴りました。
高校卒業と共に、まずは社会人経験をと大阪で開催されていた万国博フランス館で働きました。
18才ですから一番の若手、至らない事が多かったと思います。
先輩たちは何かと親切に教えて下さいました。
多少ともグローバルなものの見方が自分の中に芽生えたのは万博で小さな世界を見たことに影響されたかもしれません。
いい経験でした。
その後、今でいうフリーター感覚で浪人生活を送りながら名古屋でお医者様の家に間借りして河合塾で1年半、当時弁護士になりたいと、また東京か京都か迷った挙句一端は法学の道に進みました(中央大)
ところが周囲はねじり鉢巻きで朝夕机に向かう学生ばかり、勉強についていけず挫折、その後はマスコミ関連に魅せられて文学部哲学科社会学専攻の転部試験を受けましたが不合格、法政大社会学部の2年次編入試験に受かって入学金は2度支払いました。(親不孝な息子です)
1ドル360円の時代はさすがに海外旅行というわけにはいかず、また英語が苦手だったという事も行かなかった理由にあったように思います。
その代わりというか国内の無銭旅行だけは随分と数多く行かせて頂きました。
北海道・礼文島・桃岩のてっぺんで野宿した思い出をはじめ、冒険に近い旅の連続だったような感がします。
その分大学には顔を出す機会が少なかったように記憶します。
それでもゼミ(マス・メディア)とサークル活動(広告研究会)だけはちょいちょい顔を出していました。
東京での生活は経済的には結構大変で4畳半8000円の古いアパートに居を構えながら銭湯に通い、共同トイレ、アルバイト生活で生活していました。
まさに「神田川」の世界でした。
フォークソング全盛時代でギター片手によく歌ったものです。
吉田拓郎の曲は今もウォーキングの際にイヤホーンから流れる定番となっています。
就職時は大不況、目指していたマスコミ関連も志望していた東海テレビ、中日新聞は採用なし、広告代理店は5次試験(最終面接)で落とされる始末、1月まで就職が決まってない折に偶然空を見上げた時に積水ハウスが「セキスイハウス」と大きく書かれた飛行船を飛ばしており、これからは住宅業界が伸びていくに違いない。
この業界がいいかもと入社に及びました。
積水ハウスへ入社して驚くことばかりの日常でした。
仕事、仕事の毎日の連続でした。
働くことが美徳、僕もいつの間にか猛烈社員の典型だったようにも思います。
とにかく忙しい、大変、寝るのも惜しんで働いたように感じます。
だからでしょうが、業績も上がりました。
「住まいの参観日」を企画・立案、全国トップの支店業績等・・・。
社員さんが本当によく頑張ってくださいました。
そのお陰で本当にたくさんの思い出が業績されています。
変化の多い毎日、思い出がいっぱいの凝縮した日々でした。
積水ハウスでの経験を糧に起業して20年前から全国での仕事を頂いています。
沖縄県だけは仕事していませんが、後の46都道府県はご縁を頂き、またそのうち約半数で顧問の仕事もさせてもらって、全国各地の旅をさせて頂いています。
新幹線乗車とホテルの宿泊数は数え切れませんね。
会社員時代には48回にわたって海外の旅も経験させてもらいましたし、起業してからの10年間は年間150回ほどのホテル宿泊、まさに旅から旅への放浪生活でした。
まさに感謝・感謝の毎日でした。
コロナ禍に合って生活形態が変化しましたが 「一期一会」のたくさんの御縁を頂き
感謝の人生を送らせてもらっています。
現在は2年前に大きな手術をしましたので健康面での問題もありますが、リハビリを重ね回復基調にあります。
おこがましいと言われるかもしれませんが、出来ればもう少し社会貢献したい、自分の中で心の旅をしていたいと感じています。
まさに放浪人生だったように思います。
我儘を貫いてもう少し、可能ならば社会貢献も含めて放浪してみたいと思っています。
「今日まで、そして明日から」のメロディが流れています。
イヤホーンから聞こえてくるのは吉田拓郎、「♪今日までそして明日から」です。
「あなたは放浪癖があるから・・・」かつて母親に言われたことがあります。
振り返れば高校1年時のクラスメイトとの旅から始まって、その後はヒッチハイクでの一人旅、シュラフとリュックを背負って、固形燃料や食料も入れての彷徨いが始まりました。
高校はもう義務教育ではないからと、ちょいちょい学校をサボタージュして夜中に家族に気づかれず静かに家を出ていたなんてこともあります。
学校は何とか最低の出席日数だけは確保して何とか進級はしていました。
唯そんな日常でしたから当然ながら成績は悪く、通知表で初めて学科によっては5段階評価の1の評価もあり、2年からは進学コースに入れなく女子の多い短大クラスで学ぶことになってしまいました。
両親は共に教育に従事していたのにも関わらず、僕の我儘を放任してくれていました。
感謝しかありません。(今も毎月1回のお墓参りは欠かしていません)
とにかくあの頃は怖いものがなかったですね。
金はないから取られるものは無いし、体は健康そのものだし、好きな時にふっと誘われるように、ガソリンスタンドなどで運転手さんにお願いして乗車させてもらいヒッチハイクの旅を繰り返していました。
高校2年次の文化祭に「旅のエッセイ」と名付けた書き物を出店した思い出がありますが、その中に「将来旅を日常化したい」という思いを綴りました。
高校卒業と共に、まずは社会人経験をと大阪で開催されていた万国博フランス館で働きました。
18才ですから一番の若手、至らない事が多かったと思います。
先輩たちは何かと親切に教えて下さいました。
多少ともグローバルなものの見方が自分の中に芽生えたのは万博で小さな世界を見たことに影響されたかもしれません。
いい経験でした。
その後、今でいうフリーター感覚で浪人生活を送りながら名古屋でお医者様の家に間借りして河合塾で1年半、当時弁護士になりたいと、また東京か京都か迷った挙句一端は法学の道に進みました(中央大)
ところが周囲はねじり鉢巻きで朝夕机に向かう学生ばかり、勉強についていけず挫折、その後はマスコミ関連に魅せられて文学部哲学科社会学専攻の転部試験を受けましたが不合格、法政大社会学部の2年次編入試験に受かって入学金は2度支払いました。(親不孝な息子です)
1ドル360円の時代はさすがに海外旅行というわけにはいかず、また英語が苦手だったという事も行かなかった理由にあったように思います。
その代わりというか国内の無銭旅行だけは随分と数多く行かせて頂きました。
北海道・礼文島・桃岩のてっぺんで野宿した思い出をはじめ、冒険に近い旅の連続だったような感がします。
その分大学には顔を出す機会が少なかったように記憶します。
それでもゼミ(マス・メディア)とサークル活動(広告研究会)だけはちょいちょい顔を出していました。
東京での生活は経済的には結構大変で4畳半8000円の古いアパートに居を構えながら銭湯に通い、共同トイレ、アルバイト生活で生活していました。
まさに「神田川」の世界でした。
フォークソング全盛時代でギター片手によく歌ったものです。
吉田拓郎の曲は今もウォーキングの際にイヤホーンから流れる定番となっています。
就職時は大不況、目指していたマスコミ関連も志望していた東海テレビ、中日新聞は採用なし、広告代理店は5次試験(最終面接)で落とされる始末、1月まで就職が決まってない折に偶然空を見上げた時に積水ハウスが「セキスイハウス」と大きく書かれた飛行船を飛ばしており、これからは住宅業界が伸びていくに違いない。
この業界がいいかもと入社に及びました。
積水ハウスへ入社して驚くことばかりの日常でした。
仕事、仕事の毎日の連続でした。
働くことが美徳、僕もいつの間にか猛烈社員の典型だったようにも思います。
とにかく忙しい、大変、寝るのも惜しんで働いたように感じます。
だからでしょうが、業績も上がりました。
「住まいの参観日」を企画・立案、全国トップの支店業績等・・・。
社員さんが本当によく頑張ってくださいました。
そのお陰で本当にたくさんの思い出が業績されています。
変化の多い毎日、思い出がいっぱいの凝縮した日々でした。
積水ハウスでの経験を糧に起業して20年前から全国での仕事を頂いています。
沖縄県だけは仕事していませんが、後の46都道府県はご縁を頂き、またそのうち約半数で顧問の仕事もさせてもらって、全国各地の旅をさせて頂いています。
新幹線乗車とホテルの宿泊数は数え切れませんね。
会社員時代には48回にわたって海外の旅も経験させてもらいましたし、起業してからの10年間は年間150回ほどのホテル宿泊、まさに旅から旅への放浪生活でした。
まさに感謝・感謝の毎日でした。
コロナ禍に合って生活形態が変化しましたが 「一期一会」のたくさんの御縁を頂き
感謝の人生を送らせてもらっています。
現在は2年前に大きな手術をしましたので健康面での問題もありますが、リハビリを重ね回復基調にあります。
おこがましいと言われるかもしれませんが、出来ればもう少し社会貢献したい、自分の中で心の旅をしていたいと感じています。
まさに放浪人生だったように思います。
我儘を貫いてもう少し、可能ならば社会貢献も含めて放浪してみたいと思っています。
「今日まで、そして明日から」のメロディが流れています。