2006年 12月の記事

December 2006
カテゴリー:General
author: Masahiko Kato
「いい家に育ったんだね」と言われて「えっ」と思いました。正直意外でした。そう言ったのは北陸からやってきた税理士先生。僕の名刺の裏面に書いてあるプロフィールの一部にある僕の赤ん坊時代の写真、兎の「カタカタ」と歩くと音のする歩行器を持った写真です。それを見ての発言なのですが、確かにそう言われると白い服を着て白い帽子、白い靴下。写真館で写している様子だし良家のお坊ちゃんと言われてもおかしくないかもしれません。でも真実は違います。おそらくは母親がこんな時こそと街の写真館へ私を連れて行き多少張り切って費用を奮発し撮影してもらったものに違いありません。
  私の家は当時父が教員、母も教員をしていたのですが私を産んで仕事をやめました。当時の教員の給与は高いものではありませんでしたから生活は大変だった事と予想されます。その後妹が産まれ、私から5年遅れて弟が産まれました。父方の家系は農家でした。10人兄弟の第1子で産まれた父は本来なら家を継ぐべきだったのでしょうが次男に家を継いでもらい士官学校から師範学校へ、そして教員になり母とは職場結婚でした。僕が13歳のときにマイホームを完成させたのですが、それまでは教員住宅を移り住む生活、時には民家の2階の2部屋を我が家として5人で生活した事もあります。決して豊かな生活ではなかった筈です。が、節目、節目で母が私達子供の思い出になるようにと記念になる写真が今も残っています。母は地元では富裕な家で産まれ育ちました。そういった意識があったのかもしれません。
  昨年「オールウェイズ 3丁目の夕日」を見ました。映画を見ていて何度も目頭を押さえました。涙腺の緩さは親譲りです。昭和33年、あの頃の生活は貧しかったけど心豊かな時代でした。僕は小学2年生。時として厳しかった父親でした。よく殴られもしました。夜中に家の外に出されて中に入れてもらえないときもありました。そんな時決まって鍵を開けてくれたのは母親でした。・・・でもいつも自転車の後ろに僕を乗せて遊びに連れて行ってくれたのは父親でした。運動会でもらった風船が僕の手を離れて、風船が風に吹かれて川の向こうまで飛んで行ってしまったのですが、それをどこまでもどこまでも追いかけていってくれた父親の姿がいまだにまぶたに浮かびます。その頃、一番長く住んだ教員住宅の間取りは3畳の玄関、奥に2畳の台所、6畳の居間、6畳の全員の寝室でした。ずっと裸電球の暮らしが続いていたのですが、居間にある時蛍光灯がつきました。手元の紐を引っ張って明かりが点いた時「我が家も電化した」と口にした事を覚えています。
  教員住宅は連棟式ですぐ後ろは山、大雨でも降れば今にも土砂崩れがおきそうな危険がいっぱいな住まいでした。よくまあ、あんなところに・・・今振り返ると恐い感じもしますが、山を使ってのそり遊び、栗拾い、竹スキー、・・・思い出がいっぱい詰まっています。そんな思い出のいっぱい詰まった親父が夏の暑い日の夜逝きました。「お父さんありがとう」感謝の言葉を言えなかった事が悔いが残ります。
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author: Masahiko Kato
もしも貴方が顧客の立場であった場合、「いらっしゃいませ」と、笑顔いっぱいの元気な声で出向かいを受けたなら、しかも一人だけの社員だけでなくみんなの社員から同じように声をかけられたら、営業社員だけでなく全社員から歓迎されたら・・・。そしてそこにいる彼らが幸せそうな顔をしていたら、おそらくそれだけでその会社に決めようと思うのではないか。
  仕事上、客観的にいろいろな会社を見てきて思う事、それは社員が元気な会社、社員が明るい会社は業績がいいという事である。リッツ・カールトンホテルの支配人の話を引用させてもらうと「顧客満足が大切な事は言うまでもないが、私にとって一番大切なのは従業員の満足。従業員が幸せでなければお客様は幸せになれない」と言う。
 北海道に旅した時、立ち寄った、木々に囲まれツタの絡まった和洋菓子店「六花亭」。感じのよい店内がお客様で溢れていたのを思い出す。社員の態度や対応も商品のうちであるが販売員の気持ちのよい対応が印象的でもあった。この「六花亭」の社長は従業員を『家族』と言い、会社の事を『我が家』と呼んでいる。社長は千数百名もいる社員全員の名前を覚えていて気軽に声をかける。そこには社員が幸せでなければ顧客満足などありえないという姿勢がある。
  100名近い新人研修は5日間に及ぶが、研修中の課題が面白い。一人ひとりが仲間である同期の新人の全員の名前を研修終了時までに覚える事というものである。社員がコミュニケーションを良くして気持ちのいい社内環境を作っていく事で、従業員満足度を高くし、はては顧客満足も得ていこうという試みである。好業績の秘密が隠されているような気がしてならない。
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author: Masahiko Kato
初めてのマネージャーとなった時の事。喜びと共に責任の重さが全身にのしかかって来た。転勤先で初めて見るこれから部下となる社員の顔。期待と不安がよぎる。 先ずは気軽なコミュニケーション、社員全員との握手からはじめた。「よろしく」「お互い頑張ろう」と声を掛けながら顔を見つめ名前を覚えていく。こうして営業マンを指導する立場の自分がスタートした。
  この前の10年間、僕は展示場の店長、プレイングマネージャーとして過ごしていた。が、営業マンとしての自分にマンネリズムを感じていた。幸いにして契約はほとんどが紹介で決まり、時間管理が出来ていて4年前からは定期的にスポーツクラブへ通っていた。だから体力だけは自信があった。そして営業本部の大グループ店で期毎に表彰される成績優秀店として多少とも名前を売っていた。その為厳しい店長という噂、またユニークな発想をする面白い人という噂もあった。さあこれからどうしたら業績アップが出来るのか、どんな施策を考えようか悩んだ。現実として転勤先の事業所の実績は低迷を続けていたからだ。「そうだ、誰よりも仕事をしよう。自分が誰よりも動けばいい。そうすれば皆がついてきてくれるに違いない」そして僕は人一倍仕事量をこなした。
  朝早くから夜遅くまで仕事漬けの日々が続いた。部下の重要顧客との面談報告はその日のうちに聞く。問題点は早期に解決していく。現実的で具体的な指示を出すことに専念した。29名の部下全員とその顧客に関心を持った。毎日皆に進捗状況を聞く電話をした。そして出来るだけ多くの社員の顧客宅にも同行した。結果は自然に積み重なり今までの体質が激変した。リーダーが動けば必ず部下である社員も動くという構図がそこに完成していった。
カテゴリー:General
author: Masahiko Kato
営業時代ありがたかったことは一つのエリアで17年間という長期間に渡り継続して営業をさせて頂いた事である。サラリーマンにとって転勤は避けられないといっても過言ではない。但し業績を上げていればその人間を他エリアへ移動させるという事も上司としては躊躇するのも現実ではないだろうか。
  17年の間に1度だけだが転勤の話が現実化した事があった。「約束します。実績は落としません。この店で引き続き仕事をさせてください」上司に無理を承知で嘆願して転勤を逃れた。その後幸いにして好業績が続いた。結局マネージャーになるまでの間一つのエリアで継続して営業した。
  人口30万人ほどのその町は名古屋市のベッドタウンであって区画整理が多く住宅建築も盛んで、また大きなニュータウンも抱えていた。もちろん他メーカーも力を入れているエリアであった。我々は大きなニュータウンのすべての土地の所有者を調査し名簿化して戦略した。当時自分の中には経営責任を負うという事と市場責任を担っているという両面が常に存在した。シェアはいつも1位を取る事、しかも第2位のメーカーに倍以上の差をつけてのダントツの1位を取る事を考えていた。特にエリアの特性に敏感に反応し情報をいち早くキャッチして他社よりもスピードを持って動く事に徹していた。区画整理情報、建替え情報、分譲土地情報、そしてその為には地域の不動産屋、銀行、JAとの接触が不可欠だった。また市場調査でデータアップに努めていた。建築の多い地域で毎月催事も重ねた。OB顧客へのPRも忘れず支援を要請していた。クチコミでの広がりもあり、知らず知らずのうちに紹介が増えた。エリアに強い、地域になじんだ営業活動が身を結んでいたように思う。