高校生時代、よく学校をサボタージュしたものだった。というか義務教育が終わり高校というところは主体性をもっていくところと考えていた。とはいっても落第しては困るし、当時反抗期で親には随分と心配もかけたが悲しませるまでのつもりはなかった。だから最低限の登校の必要日数は確保して、残りの時間よく旅に出た。それは自分の中ではあくまで「旅」であり「旅行」ではなかった。「旅」とは観光化されたものでなく何となく冒険を伴うもので金をかけないものというような捉え方をしていた。だから寝袋を背負ってのヒッチハイクの旅、リュックの中には固形燃料や鍋、インスタントラーメン、あてもなくぶらりぶらりと出かけていた。お陰で勉強不足がたたり、1年生の前期は英語と地学で通知表は1をとってしまった。後期に1をとってしまうと進級できない決まりがあり後期は何とか2で学年を上げた。不思議なものでもともと運動神経が鈍いのだがどういうわけかこの時期は体育の時間が大好きだった。ブラスバンド部でトロンボーンを吹き、学校へ行かないわりには友達から人気がありクラスの代表で生徒会書記もやっていた。3月1日に卒業式を終えると翌日から大阪で開催される万国博で働く為家を出た。今でいうフリーターのような生活をしていた。

今、29年間のサラリーマン生活を辞め経営コンサルタントという名の旅人をやっている。全国でいろいろな仕事を頂いて出かける。どうやらそういった放浪の血が自分の中に流れているらしい。父親の話によると私の祖父の祖父は虚無僧になって旅に出て2度と帰ってこなかったと聞く。異例だが、旅に出た翌日に葬儀をしてくれと頼んで出て行ったらしい。82歳の父、79歳の身障者の母は2人で助け合いながら岐阜に住んでいる。私は10年間の間単身赴任をしていたが、会社を辞めたお陰で現在週に1回のペースで親の顔を見ることができるようになった。「いつまでもあると思うな親と金」とも言うが、親の顔が見えることは嬉しいし、この年になって何より親孝行かもしれないと勝手にそう思っている。自分に正直に生きることが徐々に出来るようになった。今の仕事は会社への教育であり、身内は殆んど教育関係ばかり・・・血は争えない。人を育てるのが教育者なら、僕の仕事は会社を育てていく事。不肖の息子ではあったが、自分の使命は手を差し伸べていただいた企業の方々に満足して頂ける指導をする事。独立して1年が経過して少しずつオファーも増加してきている。また、雑誌の取材や、個人のセミナー開催、新聞の連載などの声もかかり始めた。ありがたいことである。何か人生を2回生きているような気分にもなる。CAPという会社名は前に向かって挑戦するという意味合いで命名した。これからもチャレンジし続ける人生でありたいと思う。